昭和56年5月13日 13日会
んー、今日皆さんに頂く事は、まぁ一人ひとりのお話から頂いたから、最後に私の話を聞いて頂いてもらいたい。どういう事を、頂いてもらおうかと思うて、今神様にお願いをさせて頂きましたら、えー、締め太鼓。ね、( ? )締め太鼓、ね。
いわゆる、筒はこう千鳥掛けでずっとこうしてございます。それであれが、千鳥掛けがこう、掛かっておって中は又ぎゅっとこう締める、締め上げる。あのところから、あの、良い音色が出るんです。
だから太鼓がそこにある。千鳥掛けがしてない。いや、してあっても、中がきゅっとしまっていないならば、ぼこぼこといったような音であって、良い音色は出ません。だから折角合楽に御縁を頂いき、さっきからも何人の方が言われます、もう合楽に、もうそれこそ、もうかん、この頃、久留米市部の時に頂いたように、今日佐田支部長も言っておられましたように、本当にもう何千年に一度しかないだろうといわれるような合楽教会の誕生。そして、今現親先生がまだ、お達者な時に私共が御神縁を頂いたという事はこれはもう大変なことだ。
思えば思うほど、考えれば考えるほど、その不思議さに驚くほどのものを、まずは皆さんが感じて下さらなければならない、合楽に対してですね。
それでなら、そういう有り難いなら合楽教会に御縁を頂いてなら、合楽で言われる、合楽理念をマスターして、なるほど、なるほどと合点の行く事ばっかりなんだと。どういう時でも、いわば文男先生の話じゃないけども、結局健康は合楽理念を持ってする他はない。
えー、佐田さんあたりに言うたら、もう商売は合楽理念を持ってする他はないと言う、言われることになるのじゃないでしょうか。
久留米の佐田さんといや、まぁ合楽の一つの雛型のようなおかげを頂いた人だと皆が言います。まぁ本当に色んな意味から、ね、一家中の、が勢をそろえて信心が出来られる事。又様々な、様々な事がやっぱりあるんだけれども、もう様々な事のあるたんべんに力を得て、頂かれる事、それが形の上にもこう現れてくること。
それこそ、真善美に輝く世界を目指しての信心。合楽の信者、信奉者皆あれでなからにゃならんというくらいなおかげを、内外共に頂いて、内外という事は心の中にも、信心そのものも育っていっておる、おかげも、一緒に育っていっておる。どんぶりがない。何かあるたんびにこう、おかげを頂いていかれると。
もう合楽理念に基づいての、全て。健康管理も、又は商売も、ね、それでなら今度の、あちらの支部大祭に、これは度々に感ずる事ですけれども、もういよいよ整うていく。これより、もうこれがもう後は広がりに広がって行く以外にないというほどしのものを感じるおかげを受けておっても、神様からご覧になると、まだ十里の道を九里半登ったとこだと仰るです。
だから、油断するところからずるずるっと降りてしまうと。そして、まぁいうならば、まぁ善導寺、勿体島、椛目、まだ常持におるだけだと。たいてい自分なもう合楽を中心にして、合楽のお役にも立っておるつもりだけれども、神様はもうあなた、お前達はね、あの常持におるだけで、いわゆる、あー、信心ちゃ有り難いなぁ、本当におかげを頂いて有り難いなぁという事が分かっておるだけで、本当に、合楽の神様と、いうなら合楽世界に住む、合楽し合える世界というものを、がこれからだという時に、まぁやれやれこの調子でいけばじゃなくて、ここに一つ、まぁ良く、まぁ思うて見て、最後の佐田さんのお話はもう最後になるほど良かったですね。
あれをまぁ十分ばっかり続いたら、まだ良かろうと思うたぐらいでしたが、もう段々段々素晴らしい、いうならば常持世界から合楽を眺めておられる。その合楽がはっきり分かって来たところまで話されましたね。
こういう深遠な、不可思議極まる働きの中に、合楽とそれだけの関わりあいがあるのである、関係があるのである。だからここ、合楽世界を目指さなければ、これ、これからの信心はというのでございましたが、もう確かにそうなんです。
そこで私は思う、自分の信心を振り返ってみますのに、んー、私の場合はもう、あの、得に、引き上げて帰ってから、こちらの、まぁ十数年の信心を降りかえって見ると、もう何時もこう、締め太鼓が締め上げられた上にも締め上げられておる、たと言う風に思うんです。何時の時代、何時の場合でも。
ね、それは、ちょっとこれは音が悪いなぁと思うたら、直ぐこう締めなおしていきよるといったような感じがする。それがどういうところからね、あの、そう何時も、え、あの、良い音色だけを聞き続けてきたかと、何時もそんなに、こう心が(張り弓?)のように、ばーと、しゃんとしとるというのじゃなくて、特別のそうじゃなくて、もう何かしら、もう何時も良い音色が出ておるというわけですね。
どういう難儀な中にあっても、喜びだけはたえさなかった、たえさなかった、絶えなかったんです、私の心の中に。ね、当時の私の修行中のに、本当に大坪さん、あんたそげんち話しよる、ほんなこて、話よるごとありがたかとのち、皆から言われる、疑われるぐらいに有りがたかったんです。
ん、その喜びが、まぁ話しにもなり、人にも聞いて頂いておったことなんですけれども、これは子供の時から私は思うた事、思うておった事がね、私はね、この神様のおかげを頂かなければ、成功も出来ない、幸せにもなれないという事を思い込んどったようですね。
それがね、もう一時だって、ならゆるめるわけにはいかなかったんです。ね、お願いをする時自分の心を改めるとか、お願いをする時にしゃんとするとかというのじゃなくてね。もうこの神様のおかげを頂かなければ、自分は立ち行かん。という、その思いが、段々本当な物になってきて、いうならば、神願ご成就とでも申しましょうか。
神様が合楽に掛けられる願いといったような事が、もうひしひしとこう実感されるような、もう日々ですから、その油断もすきも出来んというて、なんかこうはりきっとるわけじゃないけれどね、ん、そのゆるめんですむおかげを頂いて来たのは、この神様のおかげを頂かなければという、あの、思いが誰よりも強かったからじゃなかろうかと。
ね、いうなら、自分が例えば、商売をしておるとか、自分の力量とか、( ? )とかというものは、ないようにあってもです、ね、油断する所を見ると、いうなら願いが小さい。そして、神様のそうした、あー、お願いをしておかげを頂くというような物ではなくて、お願いをせんでもいつでもおかげの頂けれる状態にあらなければならない、という思い込みが、私は誰よりも強かったんだという風に思うんです。
皆さんの信心を、もう一遍ふりかえってみて、いうなら良い音色が出ておるか。出ておるならば、まぁそれで良いけど、出ていないとするならば、締め上げなければ、どうして自分の時だけこげんゆるむだろうかと。
ね、そのゆるむ基が、いうならば神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。もう本当に神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸動けんほどしの自分であるという実感が、いよいよ募ってくる。又それが、私の、今日、まぁ言うならゆるがぬ合楽の御比礼ともなったんだと思うんです。
合楽という、いうならば素晴らしい音色の出る太鼓を皆さんが抱いておらえる。それを、いうならば、締め上げ、締め上げする、そのそれがもう何というかね。ん、それほど血肉になるというか、そういう思い込みがいよいよ本当なものになって行く、おかげを頂いていき、頂きたい、今日私が頂きました、太鼓の、締め太鼓の、お知らせは、ね、これが、形は同じ、そのものですけれども、打ち方が悪いから、良い音色とか、悪い音色ではなくて、この締め上げ方の加減が間違っておると良い音色はでらない。
それで、何時も良い音色が出るような心の状態を、いよいよつくって行かなければなりませんが、その芯になるものは、神様のおかげを頂かなければ自分は立ち行かん、というその思い込みのところを、いよいよ本当のものにしていって頂きたいと思います。どうぞ。
梶原 佳行